道を譲ってもらえると嬉しい

はじめに


先日妻が出産したので、妻と子供に会いに二泊四日でダラス〜東京を往復して来ました。往復する中で得た新しい気づきがあったので、ここに記録しておこうと思います。ほんの小さな、とてもとるに足らないような事なんですが、その小さなことの積み重ねが幸せな社会を作るんだろうと思います。

何があったのか


話の前提として、私も妻もとても体格に恵まれていると言う点があります。どちらも日本人の中では例外的に背が高く、学生時代にそれなりに真面目にスポーツをやっていたこともあり今でもそれなりな体系を維持しています。

なので、日常生活において人を手助けすることはあっても、人に助けられることはこれまであまりありませんでした。さらに言うと、この先もほとんどないんだろうなと思っていました。

ところが、子供が生まれてベビーカーを押して電車に乗っただけで、もうちょっと周りの人が気を使ってくれたら色々と楽なんだけどなぁと不意に思ってしまいました。自分が自分の周囲も含めて、ほぼ完全にコントロールできる時には、周りの人が気を遣ってくれなくてもあまり何も思わないのですが、自分の自由にならないことが増えるとこうも人間って考え方が変わるんだなとまざまざと感じました。

ベビーカーを押して今までの自分とは明らかに違う点は、

  1. 歩行速度が極端に遅くなった
  2. 機敏に動けなくなった
  3. 他の歩行者との距離を多めにとるようになった
  4. エレベーターを積極的に使うようになった

と言った点かと思います。特に大きな変化は1およびそれに影響されて変わった2と3だと思います。

上記の通り、ある種の体力自慢でもある私は、かなり歩行速度が速い方でした。東京で暮らしていた頃は、通勤中に自分の前でトロトロ歩いている人を見るといちいちイライラしてしまい、おかげで歩いているときは大体頭の中で文句を言いながら歩いている感じでした。

それが、自分が物理的に早く歩けなくなると全然違う世界が見えて来ました。

早く歩こうとすると必然的に大股になるのですが、ベビーカーを押して大股で歩くと必ず足がベビーカーにぶつかり、当たり前ですが子供が泣き出します。でもって、当たり前ですが妻に怒られます。なので、できません。すると、歩行速度が極端に遅くなり、周りの人の速度が相対的に早くなります。

こうなると今度は早く歩いている人が、自分は良いとしても子供にぶつかってこないかがとても心配になります。

そうすると、ベビーカーを押すことで、歩行時の敏捷性を失ってしまった私は、何か子供に対する危険が予見された時に機敏にそれを避けることができなくなったため、必然的に周りの人と少し距離を取りながら歩くようになります。

こうなるともう、どこへ行くにも今までの倍ぐらいの時間がかかってしまいます。ベビーカーを街中で押してみて初めてわかったのですが、小回りがききそうなやつでも、持っていない時と比べたら小回りなんて全然利かず、何をするにしても大回りです。

なので、周りの人がほんのちょっと、50cmぐらい道を譲ってくれたりするだけで、本当にありがたい気分になりました。逆にそれを急いで我先にと言う人を見ると本当に切ない気持ちになりました。また、それを毎日やってるってだけでも、子育て中の皆さん相当苦労があるんだなと感じました。

誰に親切にするべきか


この一連の、ほんの数時間の経験をもとに、改めて人に親切にするってどう言うことかを考えてみたいと思います。

まずは、誰に?ですが、一言で言うと少なくとも社会的弱者と言われている人たちだと言うことは間違いないのですが、それって具体的に誰でしょうか?分かり易い例で言うと、電車内ではお年寄りや怪我などにより歩行が困難な人、妊婦さんなどかと思います。これらの方々は、揺れる車中では危ないので、席を譲ってあげると喜ばれる対象になると思います。

では、対象はそれだけでしょうか?

もちろんそうではないと思っているので、書いています。

上記の例は、電車内において席を譲るという行為が、親切と捉えられ喜んでもらえる例です。もちろん、これは状況によっても変わって来ます。例えば、駅で路線図を見ながら迷っているオーラー全開の人を見つけたら、その人の身体的特徴とは別に、自分の知識の限りを尽くして一緒に目的地までの行き方を考えてあげるのが親切に当たると思います。

つまり、親切にする対象となる人やその方法は、状況により千差万別だということです。と、そんな風に言っては身も蓋も無いので、もう一歩踏み込んだ形で表現すると、日本の社会がこれまで標準的と思って作り上げた社会の仕組みに収まらない人が対象になりやすい。ということだと思います。

換言すれば、社会のバリアフリーかが進められているとはいえ、日本の社会は単一民族、単一言語かつ身体的な不自由がない人をモデルとして作り上げられてきたので、状況によってこれに当てはまらない人が親切にすると喜ばれる対象と考えられると思います。

今回の私のケースで言うと、ベビーカーを押してない私には電車内で席を譲ってくれる人なんていませんし、私もそれで良いと思っています。駅構内で高速で歩いていて、誰も私のことを避けてくれなくても、私が避けるので全然問題ありません。

一方で、ベビーカーを押してる私は、席を譲ってくれなくても気にしませんが、道を譲ってくれるととてもありがたいと思います。と言った感じで、私一人を取り上げても、状況によっては人からの手助けを得たいと思うことがあります。

親切にするって具体的に言うと


じゃぁ、親切にするって具体的に何をすれば良いのさ?と言う話が次に来るかと思います。この辺は、きっと慣れている人にはすぐにわかるし、慣れていない人にはなかなかわからない部分なのかと思います。

人間、自分が経験したことは想像がつきやすいので、例えば子育てをした経験がある人は、子育て中の人の苦労が分かるだろうし、怪我をしたことがある人は、怪我をしている人のしてほしいことが想像しやすいと思います。なので、経験からくる推察をベースに何か手助けをしてあげられるときっと喜んでもらえると思います。

とは言っても、日本国民全員が足の骨を折ったり、靭帯を切ったりしたことがあるわけでも無いので、何をしてあげたら喜ばれるのかわからないケースは往々にして発生します。そんな時はどうしたら良いのでしょうか?

答えはとても簡単で、本人に聞いちゃえば良いんです。投げかける言葉はなんでも良いんです。その人を助けようとしている意思が伝われば十分です。「大丈夫ですか?」、「お手伝いしましょうか?」、「ご案内しましょうか?」そんな簡単な一言を投げかけて、相手が話し出すきっかけを作ってあげられれば、それでもう十分親切にしていると思います。

まとめ


  • 誰に何をしてあげると喜ばれるかは状況による
  • 日本の社会に100%適応できなさそうな人がいたら親切にしてあげましょう
  • どうしてあげたら良いのかわからないときは思い切って聞いてみましょう

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