これは常々思っていたことなのですが、スイスに来て日常的に英語を話し、日本語を理解しない人たちに「これって日本語で何ていうの?」って言われた時に「的確な説明」をできないことが多く、やっぱりそうだよなと改めて思ったことなので一つの気づきとして書いておこうと思います。
「場の言語」という言葉をグーグルで検索すると「場の言語学」というワードがよく引っかかります。これは何かというと、物理学で言うところの「場の理論」例えば、重力場とか電磁場とかの様に「物体」とそれを取り囲む「環境」によって物体の挙動が規定されるという話を言語学にも応用している方々の研究成果だったりする様です。双方の専門家の方からしたら何と安直な説明なんだとお叱りを受けそうですが、私の理解もそんなもんなので流します。
で、この「場の言語学」が言うには、
欧米のポライトネスの考え方では、日本の敬語や待遇表現を理解することはで
きず、これと異なる「わきまえ」(井出 2006)という考え方が必要であることが明らかにさ
れてきた。その背景には、日本の文化の基底にある「場」を重視する考え方(城戸 2003、
清水 2003)があり、その場というものが日本語の文法や談話の構造に大きな影響を与えていると考えられる。場があることにより、状況やコンテクストに依存しなくても、主語を明示しないまま意思疎通に支障がないため、日常的に主語のない談話が交わされる。(出典:http://homepage2.nifty.com/jcla/japanese/2013/ws2013/ws1.pdf)
ということらしいです。
私の着眼点とは微妙にずれていますが、概ね守備範囲は重なっていると思います。彼らは、「日常的に主語の無い談話」が交わされる理由は「場」があるためと主張しています。私の意図する日本語の「場の言語」性は「日本語において主語と述語を決めるのはその会話が行なわれている状況」であるということです。つまり、友人と話すときは「あれは俺が片付けておいたよ」という一方で、目上の人と話すときは、「あちらは私が片付けておきました」とか言います。会話をする二人の話者の立場が同じ場合、もしくは自分の方が目上の場合、一人称として「俺」を使うことができますが、目上の人と話している際に一人称で「俺」を使う人はいません。同じ様に「片付ける」という動詞をどう変化させるかも状況によります。この、主語及び述語を決定する状況を「場」と呼び、私は「日本語は場の言語である」と考えています。
例えば最近私がよく話す英語では、一人称は単数なら必ずIです。どんな時でも単数ならIです。二人称はyouです。ご想像に難く無いと思いますが、ここで一つ問題が発生します。クラスメートに「Iって日本語で何ていうの?」って聞かれた場合に何て答えましょうか?無難なのは「私」ですね。概して丁寧であることを嫌う人はいないので、誰に対しても目上でも目下でも「私」を使っている限りは問題は発生しませんね。実際に女性は誰に対しても「私」を使いますし。次に無難なのは「僕」ですかね。ビジネスシーンではちょっと問題ありですが、日常生活では特に不便は無いですね。なので、とりあえず「私」って教えておけば問題無いのは無いのですが、でもそれじゃ日本語っぽく無いというか、教える側として不誠実な気がしちゃって、どうも割り切れないでいます。主語だけでも無数にあるというのに、さらに述語もとなってしまったらもはや教える気も失せます・・・。
と思うと、英語は何て経済的な言語なんだろうとも思います。誰と話す時でも私はIで、あなたはYouです。IMDでは教授もFirstNameで呼ぶので、プログラムダイレクターやゲストスピーカーとして招かれたどっかのCxOですらFirstNameで呼んでしまいます。とてもシンプルですが最初はちょっと抵抗ありました。まぁ、最初だけですけどね。
さて、この難解な「場の言語」たる日本語ですが、一対一で話をしているケースでは「場」が変わることもなく、一度認識してしまえばその場に沿った言葉を使えば良いのでもしかしたらうまく話せるかもしれません、しかし、会話というものは往々にして三人以上の複数人で行うことが多く、その際は自分とその他のメンバー個々人との関係性を考察し、適切な言葉を選ばなければならず、これはもはやネイティブのみぞ達成できる達人の境地なのかもしれません。否、ネイティブですら正しく日本語を操れていないことの方が多いのかもしれません。プライベートであれば、どちらかに寄せ切ることで違和感を取り除くことも可能かもしれませんが、ビジネスシーンで自分が丁度ヒエラルキーの真ん中あたりにいた場合、話す相手によって言葉を変えて・・・。考えただけでも頭が痛くなります。故に、会ったことはありませんが、ビジネスシーンで自分がヒエラルキーのど真ん中にいる状況で見事に日本語を操れるノンネイティブは尊敬して止みませんし、ただ流暢に日本語を話せるノンネイティブの方に会うだけでも相当な勢いで尊敬してしまします。
だいぶ話が逸れてしまいましたが、結局のところ日本語は話をする状況(主には誰とどこで)に依って同じ意味でも選ぶ言葉が変わり、それを規定する状況のことを私は「場」と呼び、それにより言葉が規定されるため、「日本語は場の言語」であると考えます。
きず、これと異なる「わきまえ」(井出 2006)という考え方が必要であることが明らかにさ
れてきた。その背景には、日本の文化の基底にある「場」を重視する考え方(城戸 2003、
清水 2003)があり、その場というものが日本語の文法や談話の構造に大きな影響を与えていると考えられる。場があることにより、状況やコンテクストに依存しなくても、主語を明示しないまま意思疎通に支障がないため、日常的に主語のない談話が交わされる。(出典:http://homepage2.nifty.com/jcla/japanese/2013/ws2013/ws1.pdf)
ということらしいです。
私の着眼点とは微妙にずれていますが、概ね守備範囲は重なっていると思います。彼らは、「日常的に主語の無い談話」が交わされる理由は「場」があるためと主張しています。私の意図する日本語の「場の言語」性は「日本語において主語と述語を決めるのはその会話が行なわれている状況」であるということです。つまり、友人と話すときは「あれは俺が片付けておいたよ」という一方で、目上の人と話すときは、「あちらは私が片付けておきました」とか言います。会話をする二人の話者の立場が同じ場合、もしくは自分の方が目上の場合、一人称として「俺」を使うことができますが、目上の人と話している際に一人称で「俺」を使う人はいません。同じ様に「片付ける」という動詞をどう変化させるかも状況によります。この、主語及び述語を決定する状況を「場」と呼び、私は「日本語は場の言語である」と考えています。
例えば最近私がよく話す英語では、一人称は単数なら必ずIです。どんな時でも単数ならIです。二人称はyouです。ご想像に難く無いと思いますが、ここで一つ問題が発生します。クラスメートに「Iって日本語で何ていうの?」って聞かれた場合に何て答えましょうか?無難なのは「私」ですね。概して丁寧であることを嫌う人はいないので、誰に対しても目上でも目下でも「私」を使っている限りは問題は発生しませんね。実際に女性は誰に対しても「私」を使いますし。次に無難なのは「僕」ですかね。ビジネスシーンではちょっと問題ありですが、日常生活では特に不便は無いですね。なので、とりあえず「私」って教えておけば問題無いのは無いのですが、でもそれじゃ日本語っぽく無いというか、教える側として不誠実な気がしちゃって、どうも割り切れないでいます。主語だけでも無数にあるというのに、さらに述語もとなってしまったらもはや教える気も失せます・・・。
と思うと、英語は何て経済的な言語なんだろうとも思います。誰と話す時でも私はIで、あなたはYouです。IMDでは教授もFirstNameで呼ぶので、プログラムダイレクターやゲストスピーカーとして招かれたどっかのCxOですらFirstNameで呼んでしまいます。とてもシンプルですが最初はちょっと抵抗ありました。まぁ、最初だけですけどね。
さて、この難解な「場の言語」たる日本語ですが、一対一で話をしているケースでは「場」が変わることもなく、一度認識してしまえばその場に沿った言葉を使えば良いのでもしかしたらうまく話せるかもしれません、しかし、会話というものは往々にして三人以上の複数人で行うことが多く、その際は自分とその他のメンバー個々人との関係性を考察し、適切な言葉を選ばなければならず、これはもはやネイティブのみぞ達成できる達人の境地なのかもしれません。否、ネイティブですら正しく日本語を操れていないことの方が多いのかもしれません。プライベートであれば、どちらかに寄せ切ることで違和感を取り除くことも可能かもしれませんが、ビジネスシーンで自分が丁度ヒエラルキーの真ん中あたりにいた場合、話す相手によって言葉を変えて・・・。考えただけでも頭が痛くなります。故に、会ったことはありませんが、ビジネスシーンで自分がヒエラルキーのど真ん中にいる状況で見事に日本語を操れるノンネイティブは尊敬して止みませんし、ただ流暢に日本語を話せるノンネイティブの方に会うだけでも相当な勢いで尊敬してしまします。
だいぶ話が逸れてしまいましたが、結局のところ日本語は話をする状況(主には誰とどこで)に依って同じ意味でも選ぶ言葉が変わり、それを規定する状況のことを私は「場」と呼び、それにより言葉が規定されるため、「日本語は場の言語」であると考えます。