はじめに
子供を持つと毎日新しい発見の繰り返しなのですが、そのうちとりわけインパクトの大きかったことを日々Blogにしたためて行こうと思います。今回は「触れる」という行動に関してです。
人は触れられると安心する
昔、私がまだ浪人生だった頃に、今でも仲の良い友達に「触れる」ということをテーマに小論文を書いてみてほしい。と言われ、さっと800文字か1200文字程度の小論文を書いたことがあります。そこで書いた内容は、端的にいうと人は触れられると心が落ち着いたり、安心したりとポジティブな効果がある、例えば、親の手に触れられると子供が安心する効果があると言ったそんな感じです。
彼はこの小論文を改めて自分の言葉に焼き直した上で、予備校の宿題として提出したり、たまたま偶然、実際の入試の小論文のテーマでそれが出たので、予備校で添削してもらった内容をふまえたうえで、当日も小論文を書き、無事に合格したことは言うまでもありません。
人は触れると安心する
この、「触れる」と言う行為が相対的であることを私はすっかり見落としていました。私は常々、世の中の出来事は相対的であり、絶対的な事象はほとんどないのではないかと思っているのですが、こと「触れる」という行為に関しては、一方通行だと思い込んでおりました。
子供ができると、世話をするために数え切れないほど子供に触れます。一緒に遊んだり、ご飯を食べさせたり、おむつを変えたり、お風呂に入れたり。本当に、文字通り数え切れないほど。その一つ一つが私を安心させ、幸せにしていきます。もちろん、手がかかるなぁと思う時もありますがそれでも、なんだかんだ言って、トータルで有り余るほどの幸せを子供からもらっています。
例えば、彼女が部屋の中を散歩するときに、何か支えがあるといいみたいで、私の指を握り締めながら散歩します。例えば、一緒にピアノを弾くときに、彼女は私の膝の間に入って来て、一所懸命自分も鍵盤を弾きます。例えば、ご飯の後に手が食べ物でベタベタになったその手を拭く時に、彼女の手の大きさや、指の長さ、指と指の間に食べ物が挟まっていないか?などを確認しながら、親である自分を認識しています。
これら、なんてことのない日常の一つ一つの彼女とのやりとりが親を幸せにします。
触れることの相対性
私はこれまで、触れると言う行動は、触れる人から触れられる人へ流れる一方通行の行動だと思っていたのですが、世の中の出来事が相対的であると考えると、これは逆の作用があると考えてもおかしくないと思います。つまり、手を出しているところに相手が寄って来たと考える、そんな感じです。その場合、触れる人と触れられる人が入れ替わり、手を出している人が触れられる人になります。そうすると、逆の作業が起きると考えられるので、触れる人も幸せになれる。こんな感じです。
親はなぜこんなに手間のかかる子育てを20年にわたってすることができるのか?その一つの答えは、自分の子供に触れることによって、自分自身も幸せになれるからなのではないか?そう思います。
まとめ
- 親は我が子に幸せになって欲しいと思うのは当たり前なのですが、意外にも子供も親に幸せになってほしいと思っているのかもしれません
- 自分の子供に触れられるのはこの上ない幸せだと最近は感じています。