寛容のパラドクスと世の中における境界線に関する考察

はじめに

少し前に、「寛容のパラドクス」という言葉を知り、なるほどなど思いました。これは、私も以前から気になっていたことではあったのですが、昔の賢い人がこれに関して、思索を巡らせていたとは全く知りませんでした。

ここでは、「寛容のパラドクス」に関して考えていることをメモしておきます。

寛容でいるためには、あるところで不寛容にならざるを得ない

「寛容でいるためには、あるところで不寛容にならざるを得ない、不寛容になることを認めざるを得ない。」まぁ、こういうことの様です。

タイトルを見るからに、その内容に関しては、想像に難くないのですが、最近、世の中のいろいろな情報を見聞きするに、社会の分断があおられる背景には、情報の流通速度が速くなったことで、いろいろなところで、世の中の人々がいろいろなところで寛容のパラドクスに直面しているのではないかと思います。

「寛容な社会」を標榜するからには、すべての意見に対して「寛容」であるはずで、「不寛容な意見」に対しても「寛容」でなければならず、その「寛容な社会」はやがて、「不寛容な意見」によって滅ぼされ、「寛容」な人々の消滅によって、「寛容な社会」も消滅してしまう。

というのが「寛容のパラドクス」の簡単な説明です。

このままだと分かるようなわからないようなですが、とても興味深いと思います。

自分はいつ「不寛容」側に立っているのか

「どういう属性で」という話は一旦おいておいて、どのグループにも「マイノリティ」は存在します。

例えば、あるグループの人を背の順で並べて、95パーセンタイルをマジョリティとした場合、上位5%まマイノリティです。私は日本人の中ではかなり背が高い方なので、この基準だとマイノリティになります。

一方で、基準をBMIに変えると24ぐらいなので、95パーセンタイルには余裕で入ってしまうと思うので、私はマジョリティということができます。

結局、マジョリティ、マイノリティというのは分類基準の問題で、どうにでもなるので「どういう属性で」というのは無視します。

世の中では多くの場合、マイノリティに対しては、寛容であるべきだという意見が主流かと思います。私も多くのテーマに関しては、その通りだと思いますが、たまにそれはどうなの?と思うような話もあります。

この、「それはどうなの?」がつまり、私が「不寛容」側に立つタイミングなのかと思います。

例えば、不健康な生活を送っている人と健康保険料が同じで、医者にほぼ掛からない私は健康保険料の払い損で、不健康な生活を送っている人が支払った保険料以上の効用を得ているのを見て、何だかな。。。と思うことは良くあります。

例えば、映画のレディースデーを見て、何でメンズデーは無いんだろう?と思い、何だかなぁと思う。この時、私は「不寛容」な立場に立っているのかもしれません。

不寛容な立場の行きつく先は社会の消滅か均衡か

さて、この「不寛容な立場」ですが、とても面白い存在だと思います。

それは、「寛容な立場」があってこその「不寛容」で、その存在自体が「寛容」に依っているということです。

概念から見てもまさにそうなのですが、「寛容」を否定することでしか、「不寛容」は存在しておらず、「不寛容」を示す肯定的な単語(不、非などがつかない)は何でしょうか?学の乏しい私にはいまいちパットした言葉が出てきません。

そして、この構造(AとB(BはB単体では存在せずに、Aを否定する形でのみ存在))は社会のいたるところに見て取れます。

例えば、政治における与党と野党ですが、与党以外は全部野党なので、これは上記のAとBの関係が成り立っていると言えると思います。

例えば、先ほどのマジョリティとマイノリティの話も構造は同じです。つまり、自分がマジョリティでない場合、自動的に自分はマイノリティになります。

もちろん、寛容な立場と不寛容な立場も相互に依存しています。

この状況において、「不寛容」が寛容を駆逐してしまった場合、「不寛容」を生み出した対となる概念の「寛容」が無くなってしまった場合、自分たちを受け入れてくれていた「寛容」もなくなり、概念的に「不寛容」たる自分たちも併せて駆逐することになってしまいます。

一方で、これが起こらない状態はどのような状態かというと、それは一種の「均衡」状態だろうと思います。つまり、「不寛容」の主張を受け入れつつも、ある一線ではそれをはねのけるために、「寛容」側にも「不寛容」な態度があってしかるべきで、その点において、「寛容」も「不寛容」に対して「寛容」でなければならない。と思います。

「ある一線」はどこか?

この「ある一線」をどこで引くのか?が常に社会の問題になるんだろうと思います。

海外との比較で話題に上がりやすいものだと、パッと思いつくのは大麻や銃でしょうか。

いずれも日本では厳しく規制されており、一般人は所持することもできません。これが銃や大麻に関する日本での「ある一線」です。

一方で、私が暮らしているアメリカでは、州によってはどちらも合法で、よく事件が起きています。なので、アメリカのとある州では「どちらも所持していいけど、犯罪に使うなよ。」というのがある一線です。

これらを受けて、日本でも「規制緩和を・・・。」という話をたまに聞きますが、ここでひと悶着起きる訳です。で、このひと悶着を解決するために政治というものがあるのだろうと思います。

他に、国内だけの話題に目を向けてみると、金融所得に対する課税などはとても分かりやすい例なのかもしれないと思います。

一言で言うと、「金持ちの資産にはもっと課税して、分配を強化しろ。」という話なんだろうと思いますが、これを進めると何が起きるかというと、日本で稼ぐインセンティブが無くなるので、金持ちや稼げる人ほど海外へ行き、最終的には課税対象となる所得自体が日本からなくなてしまうという話で、その境界線をどこに置くのか?が一つの議論の的になり、この解決も政治にゆだねるしかないものだろうと思います。

まとめ

  • とりとめもなく書きなぐりましたが、この「不寛容のパラドクス」は世の中の随所に見て取れる問題なので、この目をもって世の中を見渡してみると、新しい気づきがあるかもしれません
  • 何となく、書きたいことの半分もかけていないような気がしますが、改めてどこかのタイミングで続きでも書こうと思います。

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